明治三十六年は

Mittwoch, 3. April 2013

 明治三十六年は明治の劇界に取って最も記憶すべき年であらねばならない。明治二十年の井上外務大臣邸における演劇天覧と、三十六年における団菊両優の死と、この二つの事件は明治の演劇史に特筆せらるべき重要の記録である。  勿論、団十郎も菊五郎も突然に死んだのではない。三、四年前から今か今かとひそかに危ぶまれていたのであった。団十郎は三十三年の歌舞伎座三月興行に「夜討曾我」の五郎と「河内山」の宗俊とを勤めているあいだにも、病気のために半途で欠勤し、興行も十日あまりで中止することになった。菊五郎もその年の歌舞伎座十一月興行に「忠臣蔵」の勘平と本蔵と赤垣源蔵と、「国姓爺合戦」の和藤内とを勤めているあいだに発病して、半途から欠勤するのやむなきに至った。その時の勘平は道行の勘平で、お軽は福助、伴内は松助であったが、菊五郎は楽屋で条野採菊翁にこんなことを話したそうである。かれは勘平の顔を真っ白に塗りながら言った。 CSR 今日の一針、明日の十針